「万物を天に捧げるとは?」

天聖經 P. 812

今までの信仰生活は、「私」一人を取り戻すためのものでした。失ってしまったアダムとエバと同じ立場で、原罪のない本然の個体を取り戻すためのものでした。今、神様が最後に願うこととは何でしょうか。まずは、神様の愛を中心として、個体と個体を合わせた一つの家庭を取り戻すことです。

 

天聖經 P. 841

神様は、善の側に聖別された動物、植物、鉱物などすべての物を通して、すなわち祭物という条件を通して、人間と関係を結ぼうとされました。そのような時代に生きていた人たちは、真の祭物と一つにならなければなりませんでした。このような時代が、旧約時代までです。

真の価値を求めていくべき堕落の運命を背負った人間が夢にも考えていないときに、神様は、この人たちをして、真の物を通して真の価値の関係を結ばせるために苦労してこられたのです。

 

天聖經 P. 893

何をしてもよく深まる人がいます。何故かというと普通の人は味をすることが出来ない味をしたからである。祈祷と精誠を尽くしながら信仰生活をする人はその世界で心霊を全ての細胞が動き出すし、その発展の力が自分の内的世界で運動する。そんな何かがないといけないです。雨が降っても雪が降っても味を感じないといけません。信仰の味を感じることです。

 

天聖經 P. 830

真の信仰の道というとき、真とは一つしかありません。信仰の対象とは誰でしょうか。絶対的な神様です。信仰生活とは、神様のみ旨に合うように、神様が願う目的地を訪ねていくためのものです。「私」が願うものではないというのです。信仰する人たちが願うものではありません。今まで信仰界の混乱が世界的に広がったのは、信仰の目的が自分を中心としてするのではなく、神様のみ旨を成就するためのものであることが分かっていないからです。

 

平和の母 P. 206

万物は神様が下さったプレゼント

「あの中に入ったお金は、いつまでそこにあるのだろう?何のために使われるのだろう?」お金が財布の中に留まることより大切なことは、どこへ、誰のために、どのように使われるかです。そのお金の行き先が、その人の人生を物語ってくれます。聖書の創世記では、神様がアダムとエバを創造し、生めよ、ふえよ、地に満ちよ、万物を主管せよとおっしゃっています。そのみ言に従い、私たちには万物を主管し、生活を豊かにする責任があります。

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