「天の父母様の願い 」
天聖經 P.1183
安息日を神聖に守る目的は、どこにあるのでしょうか。結局は、神様が願う国を探し、人類を救うことにあります。キリスト教が聖日を守ってきたのは、この日を神聖に守ることにより、「私」自身が聖別され、救いの目的を果たすことに力を注ぐためでした。私たちが安息日を守る目的は、私自身の救いの道を促進させることであり、さらに全体を救い、神様の摂理の国と世界を救うという目的があります。これが、より高い神様の願いです。
ヨハネによる福音書4章20節
イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
天聖經 P.1182
「私は、誰々のために教会に行く」と言ってはいけません。「私は、私の愛する息子娘のために教会に行く」、「愛する夫のために行く」、「愛する妻のために教会に行く」、という人たちは、越えて行くことが出来ません。誰のために行くのかと言えば、神様のために行くのです。神様を「私」のものとして所有するために、神様の愛を私の愛として探し出すために、教会に行くのです。
天聖經 P.1182
礼拝時間より早く来た分の時間は、神様のために捧げた時間になるので、千金、万金、を払っても買えない価値があります。礼拝時間は神様に捧げる時間なので、その時間に遅れてくるというのは、神様の恩恵をどろぼうすることになるのです。礼拝は、定められた時間に出て来て捧げなければなりません。そうすることにより、その分出来なかったことも蕩減でき、神様のみ前に面目を立てられるのです。そのようになれば、昨日よりも良心をもって、神様のみ前に近づいて行けるのです。
天聖經 P.1182
神様に侍る場には、礼服を着て参席しなければなりません。着る礼服ではありません。「心情の礼服」です。心から、み言とともに、賛美とともに、感激した心情が流れ出てくるなら、天は皆さんを通して役事されるのです。堕落した人間がエデンの園から追放される時、涙を流しながら追い出されましたが、皆さんは、涙を流すとしても、喜びの涙を流しながら、笑顔で神様に出会わなければなりません。
天聖經 P.1182
歴史は、「私」一人を生かすためのものです。ですから、恩恵を渇望しなければならず、恩恵を相続出来なければなりません。統一教会に入ってきたのは、自分がうまくやって入ってきたのではなく、自分のために神様と先祖と教会が精誠を尽くしたからです。
天聖經 P.1193
精誠を尽くして十分の一献金をすれば、絶対に飢え死にしません。その子孫が、物質に関して窮乏に逢わないのが原則です。十分の一献金を捧げるために精誠を尽くさなければなりません。それが信仰の本質です。適当にするのは通じません。祭物は、自分の生命の代わりに捧げるのです。ですから、最も貴いものを捧げなければなりません。地上人にとって一番貴いものは生命です。ですから、「私」の生命を捧げるのです。これが、蕩減復帰の祭物を通して罪を洗い清めることなのです。