より高い神様の願いとは

天聖経 P. 1183
安息日を神聖に守る目的は、どこにあるのでしょうか。結局は、神様が願う国を探し、人類を救うところにあります。私自身の救いの道を促進させることであり、さらに全体を救い、神様の摂理の国と世界を救うという目的があります。これがより高い神様の願いです。

ヨハネによる福音書4章24節
神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。

ヨハネによる福音書4章24節
20 わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救援はユダヤ人から来るからである。
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

天聖経 P. 1182
「私は誰の為に教会に行く」と言ってはけません。「私は、私の息子、娘の為に教会に行く」、「愛する夫の為に教会に行く」、「愛する妻の為に教会に行く」という人たちは、越えていくことが出来ません。誰の為に行くのかと言えば、神様のために行くのです。神様を「私」のものとして所有するために、神様の愛を私の愛として探し出すために、教会に行くのです。

天聖経 P. 1182
礼拝時間より早く来た分の時間は、神様の為に捧げた時間になるので、千金、万金を払っても買えない価値があります。礼拝は、神様に捧げる時間なので、その時間に遅れてくるというのは、神様の恩恵をどろぼうすることになるのです。礼拝は定められた時間に出てきて捧げなければなりません。そうすることにより、その分出来なかったことを蕩減も出来、神様のみ前に面目を立てられるのです。そのようになれば、きのうよりも良い心を持って、神様のみ前に近づいて行けるのです。

天聖経 P. 1182
神様に侍る場には、礼服を着て参席しなければなりません。着る礼服ではありません。「心情の礼服です」。心から、み言と共に、賛美とともに、感激した心情が流れ出てくるなら、天は皆さんを通して役事されるのです。堕落した人間がエデンの園から追放されるとき、涙を流しながら追い出されましたが、皆さんは涙を流すとしても、喜びの涙を流しながら、笑顔で神様に出会わなければなりません。

天聖経 P.1182
歴史は、「私」一人を生かすためのものです。ですから、恩恵を渇望しなければならず、恩恵を相続出来なければなりません。統一教会に入ってきたのは、自分がうまくやって入ってきたのではなく、自分のために神様と先祖と教会が精誠を尽くしたからです。

天聖経 P.1193
精誠を尽くして十分の一献金をすれば、絶対に飢え死にしません。その子孫が、物質に関して窮乏に遭わないのが原則です。十分の一を捧げるために精誠を尽くさなければなりません。それが信仰の本質です。適当にするのは通じません。祭物は、自分の生命の代わりに捧げるのです。ですから、最も尊いものを捧げなければなりません。地上人にとって一番尊いものは生命です。ですから「私」の生命を捧げるのです。これが蕩減復帰の祭物を通して罪を洗い清めることなのです。

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