怨讐のために祈る 自分のない生活を実践する
『怨讐のために祈る 自分のない生活を実践する』
怨讐と言える相手を許し、逃がすというのは、簡単にできることではありません。既に心からすべてを許し、怨讐の顔を見ながら、そこに神様の顔を見いだそうという努力をしていない限り、実行できないことです。怨讐を怨讐として考えず、むしろその人のために祈り、許すこと。これは、「自分がない生活」をしていてこそ、可能なことなのです。
悪とは、自分が利益を得ることを目的にして与えることであり、善とは、与えて忘れてしまうことです。真の愛は、与えて、それを忘れてしまうとき、花咲きます。愛は与えれば与えるほど、減るのではなく、永遠に枯れることなく湧き続ける泉の水のように、さらに豊かになっていきます。愛の道では、本当に良いものを与えたとしても、不足さを感じるものです。良いものを与えても、それを誇りに思うのではなく、もっと良いものをあげることができなかったといって申し訳なさを感じるのが、真の愛です。(『平和の母』300ページ)