神様のみ旨に従って 生きる道
天聖経 P.832 “神様を標準とした生活…”
環境を克服して一つの新しい面の突破口をつくり、毎日のように方向を異にする道を訪ねていかなければ、神様が願う世界に行けないのが信仰の道です。ですから、私たち自身が信仰の道を行くためには、「私」の力が不足し、私自身が神様を中心とした習慣的基準、生活的基準を持つことができないことによって、これが変わりやすいので、私たちはいつも、神様を標準として、きょうの生活を調整しなければならないのです。
マタイによる福音書26章41節
誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである。
天聖経 P.820 サタンは、あらゆる方法を通して再侵犯の機会を狙っている。
習慣的な信仰生活は危険です。そのような信仰生活は、絶えず活動するサタンに讒訴条件を提示する原因になります。人々が復帰路程を歩んで行くにつれて、一人も失うまいとするサタンは、あらゆる方法を通して再侵犯の機会を狙っています。
真の父母経 P.332
祝福を受けて変わったこととは何かというのです。アダムとエバは、神様の為に生きなかったことによって堕落し、悲しみの家庭として出発しました。結局は、堕落しなかったアダムとエバの基準を立てたゆえに侍ったという誇りを持つことになります。み旨を中心に新しく編成され、昔の伝統と習慣に落ちた生活形態を繰り返せば、これは天の前に第2次的な悲しみのことです。そのようなことが起きてはいけません。ですから昔より本当に違わなけければなりません。
伝道の書7章4節
賢い者の心は悲しみの家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。
伝道の書10章2節
知者の心は彼を右に向けさせ、愚者の心は左に向けさせる。
真の父母経 P. 376 “祝福家庭とは”
祝福家庭は、自分の家庭より氏族をもっと愛さなければならず、民族をもっと愛さなければならず、さらには国と世界をもっと愛さなければなりません。そして、自分の親戚と祝福を受けた同僚たちを愛さなければなりません。そのようにして、互いが連結された一つの家庭があるとすればその家庭は、いくら多くの家庭があるとしても、印(표시)が表れるのです。男性と女性が一つになって結合したその家庭からは、国家を愛する形、世界を愛する形、天を愛する形が現れるというのです。
このように、夫婦は一致しなければなりません。「私だけ愛して欲しい」と言い、「あなたは私のものだ」など、今まで世の中の夫婦が習慣的に語ってきた言葉を祝福家庭は語ってはいけません。ですから、妻たる人は、時間さえあればそのような夫にならないよう、精誠を尽くさなければなりません。また、夫たる人も、時間さえあれば、そのような妻にならないよう、精誠を尽くさなければならないのです。お互いにしっかり力を合わせて助け合い、導いてあげなければなりません。その道を行くに当たって、傷心しないように、互いに勇気を与え合い、導き合う責任を一緒に背負っているのが夫婦であり、家庭だというのです。
ルカによる福音書6章43節
木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。
真の父母経 P. 379 良い習慣を持つべき
夫たる人は、妻の前に、神様よりさらに素晴らしい方だと記憶されなければなりません。妻が、「私は、神様を見ることが出来なかったが、私の夫を通して神様に出会った。純粋な愛とは何か分からなかったが、夫を通して純粋な愛がどのようなものであるかが分かった。また、夫を通して兄弟の愛が分かった。夫は全ての愛を教えてくれた張本人である」言える男性にならなければなりません。