『信仰の目で見つめる!』

天聖經 P.829 試練を与える理由

 人間は、堕落した人類の子孫として生まれたので、堕落の峠を越えなければ神様を訪ねることができる道はなく、天の国に入ることさえできません。また、堕落性を持った存在に落ちた人間としては、堕落した峠を再び越える道を模索したとしても、自分では不可能です。堕落した峠を再び越えるには、必ず自分の力ではない、第三者の力に頼らざるを得ません。このような立場に置かれているのが、今日、この地上に生きている私たちなのですが、有り難くも、天は私たちを放置されず、堕落の峠を越えさせるために、今まで歴史を通して試練しながら、その責任を担ってきているのです。

真の信仰とは 
 真の信仰の道というとき、真は、一つしかありません。信仰の対象とは誰でしょうか。絶対的な神様です。信仰生活とは、神様のみ旨に合うように、神様が願う目的地を訪ねていくためのものです。「私」が願うものではないというのです。信仰する人たちが願うものではありません。今まで、信仰界の混乱が世界的に広がったのは、信仰の目的が自分を中心としてするのではなく、神様のみ旨を成就するためのものであることが分かっていないからです。

天聖經 P.831  
 イエス様がこの地に来て、神様の全体の使命を代わりに背負い、天宙において起こったこの闘いを完結するための責任者として立った時、いつも問題視したのが神様とイエス様ご自身の事でした。神様は、天宙の中心にならなければなりませんでした。これをいつも念頭に置いていたのです。もし、ここに間隔が広がり、一つの目的の基準を中心として相いれないことが広がるようになる時は、勝利の方向に前進できないのです。
~イエス様がいつも心中で深く考えたこととは何かというと、「父と息子はいつも一つにならなければならない」ということでした。すなわち勝利的な主体である神様を中心として、自分が地において主体的な立場で勝利的な基盤を備えるためには、まず、自分の心に神様を迎えなければならないという認識を持っていたのです。そのような立場でイエス様が自分のことを、「神の宮である」と言った話が成立するのです。結局、勝利の基準とは、地で神様の実体となるイエス様を中心として、聖殿と同じ立場で一体になる基盤です。一番大きな問題は、勝利の基準を、自分自体の内でまず決定できるひと時を持たなければならないことである、と結論を下せるのです。

反対される理由(マルスム選集301-284 1999.5.5) 
 統一教会は今まで反対を受けてきましたが、反対される理由が何かというと、悪いから反対されるのではありません。悪の世界にとって、自分たちが不自由になるようなことをするので、反対しているのです。その反対を受ける場で、それ以上に感謝すべきことが間違いなくあります。天のみ旨がその足場に立てられると考えれば、感謝しなければならないのです。ですから、「不平」という言葉は地獄にもあり得ません。地獄に行っても、不平を言わなければ天国になります。天国に行っても、不平を言えば地獄になるのです。

解怨成就が早くなる(マルスム選集1993.1.2) 
 神様がつくった複雑な状況は、悪いものではありません。どこに行ってもぶつかり、どこに行っても死ぬほど苦しむようにしておいたのは、垢を剥ぎ取り、傷口からうみをかき出して、堕落性を早く脱がせようとするためです。体がめちゃくちゃになり、垢が幾重にも重なっているので、それをすべて剝ぎ取るためには、平坦な環境ではいけません。環境が平坦でなければ、殻がどんどん剝ぎ取られるのです。ですから、複雑になればなるほど、蕩減的解怨成就が早いというのです。

お母様のみ言
 責任を果たすことができる美しい天寶家庭になることを願われることでしょう。そのように決心して実践してくれますね。

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